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有法子(ユーファーズ)


十河信二氏


第四代 国鉄総裁十河信二氏
十河信二記念館にて

有法子(ユーファーズ)

 中国語で”成せば成る”
”まだ 方法がある、もっと努力しよう”という意味

十河信二記念館
〒793-0030 愛媛県西条市大町798-1
電話 0897-47-3575
JR伊予西条駅 隣接


昭和38年4月 十河信二国鉄総裁の 入社式訓辞




『未完の国鉄改革』
葛西敬之著 
東洋経済新報社 2001年
ISBN:4-492-06122-3 C3021
葛西敬之 氏は  現在(2008年 )
東海旅客鉄道株式会社(JR東海)代表取締役会長


以下 葛西敬之著 『未完の国鉄改革』より 引用

昭和38年4月 十河信二 国鉄総裁の入社式訓辞

「昭和38年4月、その年の一月に完成したばかりの本社ビルではじめて行われた入社式に私(葛西敬之氏)は出席した。

式では、当時の十河信二国鉄総裁から一人一人に辞令が渡され、訓辞があった。(中略)

----以下 訓辞の抜粋-----

一点目 「線路を枕に討ち死に」

「今日、自分は国鉄総裁として「線路を枕に討ち死に」をする同志を迎えるつもりで一人一人に辞令を渡した。」

二点目  「有法子」

「ついては入社に際してあなた方に一言、座右の銘を送りたいと思う。
自分の座右の銘を言うから、それを拳々服膺(けんけんふくよう)しなさい。それはユーファーズ(有法子)という言葉である。」
と言った。

自分は戦前から戦中にかけて満州(中国東北部)に行っていたが、そのころに蒋介石やそのスタッフ達と親交があり、その人達から次のようなことを聞いた。

『中国人は列強に後れをとっている。後れをとっている理由は、少しばかり困難に遭遇すると、すぐメーファーズ(没法子)と言ってあきらめてしまう気風にある。メーファーズとはどうしようもない、仕方がないということを意味するのだが、これが良くない。

中国人が どんな場合でもユーファーズ、必ず なんらかの 打開策があるという気持ちを持つようになれば、中国は立派な国になる。』

自分はその言葉に大変感銘を受け、とてもよい言葉だと思うので、自分の座右の銘にしている。」

-------(中略)---------

昭和30年に十河総裁が就任してから昭和38年までの間、国鉄はずっと黒字が続いていたので、「線路を枕に討ち死に」という言葉は、当時としてはいささか意外な言葉だった。

----(中略)---

しかし、その後の実際に国鉄がどのようになっていたかを振り返ると、
--(中略)---昭和46年には 償却前の赤字、----運営費を借入金で賄わなければならないという、事実上の倒産状態に転落した。ここで国鉄の経営は破綻したといってよいと思う。

----(中略)--

その後昭和62年の分割民営化により新しい体制に移行するまでの間、一貫して赤字が続き、しかも債務は拡大の一途をたどることになり、十河総裁の訓辞はそのとおり現実のものとなった。

彼は国鉄経営が抱える問題の本質を正確に見通していたというのが、今になってみるとよく分かる。

私たちは文字どおり「線路を枕に討ち死に」をしたわけで、そのなかで「ユーファーズ」を身をもって実践させられた。

誠に意味深い訓辞であったと思う。」

以上 『未完の国鉄改革』
より引用

『未完の国鉄改革』
葛西敬之著 
東洋経済新報社 2001年
ISBN:4-492-06122-3 C3021


レールの幅


四国鉄道文化館にて。

単に レールの幅が違うというだけではない。
右は在来線、狭軌。(1069mm)
左は東海道新幹線。広軌(正確には標準軌)。(1435mm)
十河信二、島秀雄が牽引し、昭和39年開業した東海道新幹線。
高速で安全に安定した大量輸送ができるように、鉄道技術が結実し、戦前から、後藤新平、仙石貢、島安次郎らが果たせなかった標準軌鉄道の夢が、ここに実現できた。


「新幹線とは何であったかというと、それはひとつのコンセプトであった。時代の要請の強い大事な時に、新しい鉄道のコンセプトを提案したことが、新幹線の最大の成功の原因であり功績であった。」
山之内秀一郎 氏


「十河総裁の業績あるいは国鉄の成し遂げた偉業で特筆すべきは、東海道新幹線の建設である。」
葛西敬之 氏

四国鉄道文化館 JR伊予西条駅 隣接


新幹線がなかったら

『新幹線がなかったら』
山之内秀一郎著から 引用

「もし日本の国鉄が東海道新幹線をつくっていなかったら、どうなっていただろうか。

新幹線のできる前の最も速い特急電車「こだま」は東京と大阪の聞を6時間30分かかって走っていた。途中に急曲線や分岐器の多い旧東海道線ではこれ以上のスピードアップはむずかしい。

当時はまだ航空運賃が鉄道よりもはるかに高かったので、それでもたくさんのお客様が利用してくださったが、運賃にあまり違いのなくなった現在では、6時間半もかかるようでは列車を利用する人はほとんどいないにちがいない。

当然、その後にできた山陽、東北、上越などの新幹線も生まれなかっただろう。

そう考えると、もし、いまから約40年前(1956年)に新幹線をつくるという英断をしていなかったならば、日本の鉄道は東京、大阪などの大都会の路線を除くと、ほとんどの路線は赤字のローカル線になるか、あるいは姿を消していたかもしれない。ひとつの意志決定が日本の鉄道を救ったのである。

それだけではない。

日本の新幹線の成功が鉄道の先進国ヨーロッパにショックと刺激を与え、フランスの TGV やドイツの ICEを生んだ。日本が新幹線をつくっていなかったならヨーロッパの高速鉄道も生まれず、鉄道の旅客輸送は衰退していたにちがいない。

さらに、アジアでは、いま韓国をはじめ中国、台湾などで新幹線に相当する高速鉄道の建設計画も動き出している。新幹線をつくるという意志決定は世界の「鉄道」という産業の将来を左右する意志決定でもあったのである。

------中略------

ひとつの意志決定が国の経済の将来を左右していたかもしれないのである。」

『新幹線がなかったら』
山之内秀一郎著
東京新聞出版局1998年12月
ISBN4-8083-0658-1


昭和39年の開業後、東海道新幹線は しばらくの間は、営業運転としては世界最速(210km/h)であったが、やがてフランス、ドイツなどで もっと高速な営業運転が始まり、今日では世界各地で高速鉄道が広まり、中国では 鉄輪レール式350km/h、常電導、磁気浮上式で430km/hで営業運転している。

三つの案



『未完の国鉄改革』 葛西敬之著 から引用

「昭和30年代の初めころ、東海道本線の輸送力は完全に限界に達し、その増強策として、三つの案が検討された。

第一は東海道線と平行して在来線と同規格の狭軌の鉄道を増設するいわゆる併設線増案で、汎用性あるいはネットワーク性に最大限度の配慮をする案だった。

第二は 在来線と同じ規格で別線線増をする在来線型狭軌鉄道のバイパス方式である。新しい土木技術を採り入れて、従来の線形にとらわれない自由な線形がとれることで、営業距離が短くなり、いく分かの時間短縮効果が期待できる。それと同時にネットワーク性・汎用性も担保される案であった。

第三は標準軌間、すなわち在来線よりも広い軌間で別線の線増をする現在の東海道新幹線案だった。

今 振り返ってみると、東海道新幹線方式以外はすべて非現実的であるように見えるが、当時の考え方は必ずしもそうではなかった。
大多数の経営陣は第一案が理想だと考えていたといわれる。

----中略-------

外部の人には「東海道新幹線は鉄道の希望の灯火であり、国鉄は一丸となって推進している。」と思っていたに相違なかろう。

しかし現実はそうではなかった。

聞くところでは、当時 東海道新幹線に入れ込んでいたのは、十河総裁と、島技師長と、新幹線建設を担当していた少数の技術者だけだったそうで、周りから他の言葉を聞かない「関東軍」と言われていたらしい。」

『未完の国鉄改革』
葛西敬之著 
東洋経済新報社 2001年
ISBN:4-492-06122-3 C3021

十河総裁の情熱


「失点主義の支配する組織においては有能な者とは リスク回避能力の高い者であり、評価の高い者ほど無謬性の演出に長けている。

うまくいったら「俺も賛成だった」、うまくいかなかった時には「俺は反対だった」とといえるような、非常に曖昧な態度をとるのである。
東海道新幹線の建設に対する国鉄部内の大方はこのような姿勢であったと聞く。

-------中略------


結果論としてみれば、在来線の併設案は戦力の逐次投入であり、広軌別線の東海道新幹線建設は戦力の集中であるとみることもできる。

しかし、膨大な財政的・人的資源を集中投入する賭けは、官僚的決断にはなじまなかったというのが現実であった。

それを突破したのは十河総裁の情熱であり、リーダーシップであったと思う。

ただ総裁の情熱だけでは東海道新幹線には結びつかず、そこで島(秀雄)技師長の構想力が非常に重要な役割を果たした。」

『未完の国鉄改革』
葛西敬之著 
東洋経済新報社 2001年
ISBN:4-492-06122-3 C3021

時速二〇〇キロを超える鉄道の実用化には六一年という時間

平成6年 島 秀雄氏は93歳で文化勲章を受章した。

その時 東海道新幹線関係者での ささやかな お祝いの席で 島 秀雄氏は車椅子から演壇に立ち上がって50分間にわたって「告別講演」された。

葛西敬之氏はその時伺った 新幹線構想にまつわる話、 誕生について 書いている。

「時速二〇〇キロで列車を走らせるという構想は、二〇世紀の初めに遡る。はじめてテストで二〇〇キロを超える速度を記録したのは一九〇三年、ドイツにおいてだった。

------中略------

時速二〇〇キロを超える鉄道に日本が着手したのは、昭和一四年の弾丸列車構想においてである。
弾丸列車構想では曲線の半径を二五〇〇メートルにするなど、線路の規格は今の東海道新幹線と同じで、戦前と戦後とでは蒸気機関車か電車かという違いはあったが、それが東海道新幹線に結びついた。

一九〇三年に はじめて実験で走ってから一九六四年に東海道新幹線が開業を迎えるまで、時速二〇〇キロを超える鉄道の実用化には六一年という時間を経ている。

これを見ると、鉄道は大規模な総合技術であり、しかもライフサイクルの長いものであることがよく分かる。

そして、誰もが危惧の念を禁じえなかった東海道新幹線の建設に踏み切った当時の経営陣の勇断は賞賛されてよいと思う。

もし東海道新幹線ができていなければ、現在の日本における鉄道のポジションははるかに低いところにあっただろうし、東海道新幹線の収益力に着目し、これを「種芋」として収益調整をやることによってはじめて可能になった分割民営化は実現できなかった。」


『未完の国鉄改革』
葛西敬之著 
東洋経済新報社 2001年
ISBN:4-492-06122-3 C3021

『十河信二』有賀宗吉著


以下 
『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会の記述から引用

鉄道は政争の具となるなかれ


「後年、十河が国鉄総裁になって、情熱を注いだ仕事のほとんどが、後藤新平から受け継いだものだといってよい。(仕事ばかりでなく、その生活信条まで受け継いだのではないか、と思われる節もある)。

十河は「日本の鉄道は、どうしても、広軌にしなければならないと主張、非常に苦労された二人の恩師(後藤新平と仙石 貢)を思うと、私が総裁になったからには、これだけは実現しなければならないと決意した。国鉄を広軌にする、最後のチャンスだ、と思った。二人の恩師が苦労した姿が、頭にしみ込んでいた」と語っている(昭和四六年六月の録音)」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

国会での 十河総裁の答弁


「私の尊敬する後藤新平総裁は医者でした。後藤総裁は人間の身体の血管は心臓に近づくほど太くなっている。心臓の周辺が太くなっていることが、端々の毛細血管にとっては非常によいことですだそうです。だから、東京〜大阪の大動脈が太いということは、結局は地方の線区も、それによって裨益します。東海道沿線は、全国総人口の約四〇%を占めています。工業生産額も全国の六〇%以上を占める製造工業の中心地帯であります。だから ここに、いくら設備投資してもペイすると思います。」 国会での 十河総裁の答弁。

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

仙石 貢



「仙石 (貢)は鉄道大臣になると、貴衆両議員などの鉄道無賃パスを全廃した。」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

”我田引鉄”を嫌った


「西条線(現在の予讃本線)の伊予土居−伊予西条間が開通したのは、大正十年六月二十一日である。十河の故郷へも、ようやく鉄道が通じた。

四国は、わが国ではもっとも鉄道の普及が遅れた地方で、四国の幹線というべき土讃線が全通したのが昭和十四年である。

四国出身の国会議員で仙石貢、白石直治などという鉄道に顔のきく大物もいたが・・・・・。

白石は、土讃線敷設のために長い間努力していた。仙石は、前述のように広軌論者で改主建従派で、”我田引鉄”を嫌った。

仙石が鉄道院総裁の時、白石が頼みにいくと「鉄道は営業収支償うところから敷設すべきで、四国などに鉄道を敷設するのは後回しでいい」といった。十河も改主建従派だった。」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

仙石貢は高知県高知市出身
白石直治は高知県南国市出身

[お墓参り]


「春秋の彼岸には、十河は必ず青山墓地へ墓参りに行った。

後藤新平、仙石 貢、森 恪、江木 翼、三木忠造、大木達吉、岩井禎三などゆかりのある人の墓、約二十カ所くらいにお参りする。」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

広軌決定で青山墓地へ


「(昭和)三十三年十二月十二日=交通関係閣僚協議会は「東海道新幹線の早期着工」を決定した。東海道新幹線の着工が正式にきまり、十九日の閣議に報告することになった。

この十二日の夕方、十河は秘書の沼尾俊幸(後に新幹線支社文書課長)ただ一人を連れ、青山墓地の後藤新平と仙石貢の墓参りをした。」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

線路を枕に討死する覚悟で引き受けた


昭和29年9月26日 洞爺丸事故
昭和30年5月11日 宇高連絡船「紫雲丸」沈没、死者168人。

「 「国鉄総裁の長崎惣之助は5月13日、
「紫雲丸」事故の責任を負わされ、総裁を辞任せざるを得なかった。」

昭和30年5月19日

「紀尾井町の福田屋で、

十河は、民主党の総務会長・三木武吉と国会対策委員長・砂田重政に会った。

十河の回想によると、

三木・砂田は こもごも私(十河信二)に、国鉄総裁就任を迫るのであった。
私はもちろん断った。理由は老齢、病後、到底その任にあらず、と言うにあった。

三木は「君が学窓を出て、社会人としてスタートしたのは国鉄ではなかったか。四国の山村貧農の家に生まれ、最高学府を卒業しえたのは、国民大衆に負うところ甚大である。直接国民大衆に奉仕する官庁に奉職し、報恩感謝の生涯を過ごしたいと言って、国鉄入りをしたのではなかったか。いわば国鉄は君の祖国である。今や祖国の悲運、城を護る城主なきに苦しんでいる。然るに君は、白羽の矢を立てられたにも拘わらず、喜び勇んで陣頭に立とうとはせず、老齢だとか、病後だとか、辞を構えて逃避せんとするのか。一死報国の覚悟はないのか。武士道も、日本精神も忘れたのか。そんなに命を惜しむ卑怯者であったのか」と言い放った。

「おれは約束があるから、篤と再考してくれ」の一言を残して、席をはなれて行った。

ということで、この三木の言葉によって、(十河信二は)引き受ける決意をしたという。
三木はこの日、保守合同問題で大忙しだった。


中略

(十河信二は 総裁正式受諾した直後の 記者会見で)

「国鉄総裁を引き受けた心境は−−−−」について、

「さきごろまで入院していた身体だ。血圧が上がったり下がったりして、健康状態がかんばしくないのだ。しかし国鉄の信用を回復せねばならない。私がはじめて就職したいわば生まれ故郷の大事だから、最後のご奉公と思い、線路を枕に討死する覚悟で引き受けた」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

往復で五里


「新居浜の生家から西条の中学校まで二里半、往復で五里(一九・五キロ)である。往復五里の道は、一三、四歳の少年の足では五時間近くはかかったろう、素足にワラジか草履履きで、貴重品の革靴は、学校近くに預けておいた。」

『十河信二』有賀宗吉著 昭和六三年六月
十河信二傳刊行会

十河信二 元総裁に関連する WEBサイト



2008年12月21日 第1版制作
2009年1月2日 更新

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